時に岸なし

 

 ところで旅のお方、遠くから来られたとのことであれば、我々を運ぶ汽車がこれから通過する古橋についてはきっとご存知ないでしょう。窓の外をご覧ください。樹々のあいだに立ち込める霧が一層深くなってきたようです。この路線に乗り慣れているものは、みなこの霧をひとつの合図にしております。
 このまま10分もすれば、汽車は一度森を抜けて太い渓流に行き当たりましょう。こちらの岸から反対の岸までは、渓流にかかる橋を通って行くわけです。その橋、通過する時間にして数秒の古橋は、時渡りの橋と呼ばれております。薄気味悪い逸話のある橋でして、そこを通るときはいつも、車内に冷たい空気が漂うのです。
 今、斜め向かいの座席の方が腕時計を外しましたね。お気付きになりましたか。さあ、橋に着く前にあなたもそうした方がいい。にわかには信じがたい話でしょうが、どうやらご関心がおありのようで、その理由をお話しいたしましょう。

 

 時渡りと申しますのは、この橋にまつわる何十年も前のうわさによるものです。いったい誰が言い始めたのか、この古橋は過去に通ずるのだと伝えられておりました。過去に通ずるとはつまり、この橋を行けば昔に戻れるということです。とはいえ、必ずというわけではありません。運が良ければという条件付きでした。
 もちろん、こんなうわさを大まじめに信じるものはそうそうおりませんでした。しかし、そのうわさを知るものは皆、橋を渡る際つい心の中で祈ってしまうのです。あの頃に戻りたい。あの日々をもう一度と。実際、当時は私もそうでした。願ってみれば確かに、この深い霧の中では違う時間が流れているのかもしれないと感じてしまうものでした。うわさは過去に未練のある人々にうけ、ついにはこの橋を目当てにやってくる人が現れるほどとなりました。若いあなたがまだ生まれていないであろう、遠い昔の話です。

 

 ある日の夕暮れ、陰気な面をした男が汽車に乗り込んできました。彼の目的地は時渡りの橋でした。他の者と同じように、過去に未練があったのです。些細なことをきっかけに、妻を刺し殺して海に沈めてしまった過去が彼を苛み続けていました。生来癇癪持ちであった彼は、己の突発的な性分に振り回されながら生きておりました。いつも気付いたときには目の前で物が壊れており、時には人が死んでいるのです。ついには良き理解者であった妻さえも、ナイフでめった刺しにしてしまいました。妻を殺して海に沈めたあと、男はこの霧ほどに深く後悔し、己の不幸を呪ったと聞きます。

 

 汽車が時渡りの橋を抱く森に着く頃には、日が落ちきっていました。月明かりも届かない鬱蒼とした樹々の間を、男を乗せた汽車は黙々と走り続けます。
 夜の闇にもこの森の霧深さはわかるものです。男は車窓越しに、うわさ通り、自分が橋へと近付いていることを感じます。何気なく腕時計を見ると、時計の針は午後8時23分を指していました。奇しくもその時刻は、妻を殺し、意識を取り戻した時刻を思い出させるものでした。いつも彼は正気を取り戻した時に腕時計を見るようにしていました。正気を失っている間の自分と今の自分の連続性を保つ工夫です。妻を殺して目を覚ました時刻は午後8時15分でした。不思議な巡り合わせに男の胸は高鳴ります。戻りたい。男は必死で祈りました。もう一度生きた妻に会いたい。
 突然、汽車がガタガタと大きな音を立て始めました。車輪が古びたレールを噛み始めたようです。この音によって男は察します。汽車は、今、時渡りの橋を進んでいるようです。立て続けに二度三度と車両が大きく揺れました。揺られてつい顔を上げると、誰もいなかった向かいの席に、強烈な磯の臭いを放つ女が俯いて座っているではありませんか。

 

 しとどに濡れた白い長髪で顔は覆われているものの、男はすぐにぼろを纏ったその痩せ女が誰であるかに気づきました。すがるような思いで妻の名前を呼びかけます――しかし、女は返事をしません。何度呼びかけても無駄でした。女は俯いたままで、ぽた、ぽたと、髪から滴る水によって足元に水溜りを作るのみでした。
 女の様子がおかしいので、次第に男はある考えに囚われはじめました。無残な殺され方をした妻が過去から復讐をしにやってきたのではという疑念です。背筋に冷やりとしたものを感じ、そんなはずがと、腕時計に目をやりました。時刻は午後8時15分。時計の針が戻っているのです。妻が殺されたまさにその時刻へと。
 男が手元を見て慄いていると、女は痩せ細った白い手をそろりと伸ばし、その時計ごと男の手首を掴みました。恐怖に青ざめた男は「やめてくれ」と払い除けようとしましたが、女の力が異常なほど強く、腕はぴくりとも動きません。その力はおよそ女の細い腕から生じているとは思えぬほどのものでした。逃れ難い死が男を捕らえてしまったのです。

 

 女が何かをぼそりと呟き顔をあげました。痩せこけた女の顔は両目が抉りぬかれており、生々しい切り傷だらけで、しかし口元では笑っていました。男はやはり女の顔に見覚えがありました。その女の、妻の目玉を抉ったのは他ならぬ自分だからです。磯臭い妻の吐息を浴びると、いよいよ男は我慢ならなくなり、「助けてくれ」と喚いて立ち上がりました。しかし、腕を掴まれているのですからどこへも逃げることはできません。それでも男は必至に抵抗したので、ついに彼の片腕は、ぶじりという鈍い音を立てて引きちぎられてしまいました。女は彼の腕を抱きかかえるとにたりと笑い、霧となり、水たまりを残して消えました。
 遠巻きに一部始終を眺めていた乗客が声をかけたときにはもう、男は出血と衝撃で亡くなっていたそうです。痕跡を残さぬよう車内の血はすぐにぬぐい取られましたが、男の死に様は瞬く間に乗客に知れ渡りました。時渡りの橋をありがたがるものも次の日からいなくなりました。信心深いものは、女を恐れて橋を渡る前に腕時計を外すのです。過去が自分の腕を掴むことがないように......。