自由奔放

 

道徳的アライメントテスト

 

混沌にして中立


混沌にして中立の人は、自らの行動を含め、最終的には何に対しても無秩序であると信じています。 これを指導原則として、彼らが崇める対象の発言には何でも従う傾向があります。 決定を下す際に、善悪は意味を為しません。 混沌にして中立の人は、対処に困難を極める場合が多くあります。彼らは自由の理想を推進しますが、最も重要視されるのは彼ら自身の自由が前提となります。 混沌にして中立の人は自由奔放で、他人の不幸を楽しむことはありませんが、彼らがチームに参加した場合には、それはそのチームの目標が現時点で自分の目標と一致しているためです。 命令されることを嫌い、個人的な目標の追求において非常に利己的である可能性があります。 しかし、目標を達成するための方法は、統一性がなく、型破りであり、ほぼ予測不可能と言えます。

 

 


僕がこの手の診断をやるとだいたい「自由奔放」の四文字が出てくる。エゴグラムでは鎖から解かれた犬とかなんとか書かれていた。でも確かに「自由」は僕の価値観もとい判断基準として欠かせないものである。もしかしたら一番大事なものかもしれない......と言うと危ない思想を持つ人みたいだが、一応共同体の取り決めは個人の自由より優先されるものだとは考えている。見方や程度次第ではあるが、社会は自由を定義付けして部分的に保障してくれるものだから。

 

辞書的な意味通りの完全な自由について考えてみると、そもそも僕たちは共同体よりも上の次元で強烈な束縛を受けていることに気づく。それは精神活動が「人間である」というフィルターを通さずには行えないこと。僕たちはタイプとして人間であることから逃れられず、僕の存在も、精神も、僕の為すことも、もちろんあなたも、全てが人間の具体例(すなわちトークン)に過ぎない。このレベルで自由を捉えると、僕たちが自由であったことは一度もない。僕たちは人間にできることしかできず、人間が考えられるようにしか考えることしかできない。

 

完全な自由を夢見て一度人間として死んでみるのも手だろう。しかしそこまでしなくても、僕たちはこのような境遇にありながら、日常言語レベルでは希望をもって自由について語り、自由を追い求めることができている。
それはきっと、僕たちが認識可能なレイヤーからは、あらゆる人間の具体例が成す集合の外延を捉えることができないからだろう。
少なくとも僕はそんな定めに不満はないし、そのうえで身分相応な自由を必要としている。