《苦悶の泉/Font of Agonies(RNA)》

 

 ヤコブの子、イスラエルの民が主の統治を忘れ、異教の偶像に執心していた頃、カナンの南方に位置にする森の泉にうなだれる男があった。彼は豪族の独り子であり、一時は何の不自由もない裕福な暮らしをしていたが、その富を妬む者たちの裏切りにあい、今ではすがるべきものもない境遇にあった。親を亡くし、土地を無くし、かつて知性に輝いていた青い瞳も今では絶望に濁るのみであり、主、すなわちいと高きところにおられる方の導きの他に、いかなるものも彼を救うことはできないように思われた。
 男に泉へ参るよう勧めたのは、ヨルダン川沿いの沼地を住処とするもの達であった。彼らは泉の神を信仰しており、疲れ切った男の曰くありげな様子を見て、良心からそうすることを勧めたのであった。男は絶望のさなかに神への信仰すらうち捨てており、この提案にはからきし乗り気ではなかったが、他に何をするあてもなかったために、ひとまず彼らの言う通りにしたのであった。沼地から森の中の泉へはおよそ150スタディアほどの距離があったが、男には掃いて捨てるほどの時間があったため、それも問題とはならなかった。ともかく、今男は泉を前にして膝をつき、静かな水面に映るやつれた自分の顔を遠い目で眺めながら、沼地のものから教わった祈りの作法を思い出している最中であった。

 

「どうかおいでください、泉に住まう方よ!」

 

 男の左手が見慣れぬ印を空に刻むと、泉の霧はどんどんと濃さを増していった。ついにその霧が男をすっぽりと包み込むと、男はどこからか不気味な低い声――それは地獄の谷底で喘ぐ亡者の呻きを思わせる――がするのを聞いたので、立ち上がり、身振りで称揚の意を示した。霧は深く、その声がする方向はまるで見当がつかなかった。

 

「貴様の望みは何か」

 

 声はかろうじて聴きとれるほどの低い音で男に尋ねた。その凄みに負けじと、男は力を振り絞って声を張り上げた。

 

「あなたほどのお方であれば、私の心はこの泉の水ほどに透けて見えているのでしょう。そのうえで何かと申すのであれば、お答えしますが、まったくもって私は『持つこと』の絶望に耐えられぬのです!富も、家族も、土地も、愛も、神をも失い、失うことの苦しさをこれほどまでに味わったものが他におりましょうか。まことにこれ以上は勘弁願いたい。そこで、持っていないものは失うことができないのですから、私は何もかもを手放すことにきめたのです。どうか、私が未だ持っているものを全て受け取っていただきたい」

 

 男の必死の嘆願は霧の奥まで届くほどであった。声の主はそれを聞き届けると、満足げに相槌をした。

 

「貴様が捨てきれずにいるものはそう多くないが、命までも奪うつもりはない。望むのなら、声、顔、手、足、他にも様々なものを失くしてやることができる。だがそうする前に、貴様がこれまで失ったもののうち、これから最も大事にすべきものを取り戻し、与えよう。これは契約である。貴様はそのものを守り、抗いがたくそのもののために生き続ける」

 

「ええ、いいでしょう。ただそのためだけに生きるのであれば、簡単なことです――ですので、さぁ、早く!私から、できる限り多くのものを奪い取り給え!」

 

 叫き散らした男は興奮のあまりその場に膝をつき、ぜえぜえと肩で息をし始めた。声はもはや男に語りかけるのをやめ、代わりに呪文を唱え始めた。まずその呪文は、とても耳を塞がずにいられないおぞましい響きで男の全身を強張らせた。身動きが取れなくなった男は次第にある感情に心を支配されはじめ、思わずぐっと目を閉じた――すぐに男のまぶたの裏に浮かんだのは、このおぞましい呪文が骨張った細い指として彼の心臓を鷲掴みにして、握りつぶそうとする情景である。

 

「――」

 

 これに抗うべく男は口を開けて何か叫ぼうとしたが、まず口が開かず、そして声も出ない。この間も指はきりきりと心臓を締め上げ続けており、息さえつけぬ苦しさが彼を襲う。辺りに助けを求めようとするが、目も開くことができない。いよいよ男は、この苦しさは受け入れるほかないのだと悟るのであった。


 この苦しさとは、すなわち恐怖であった。泉の神が男に与えたものとは、まさにこの恐怖であった。それは富や、土地や、家族に紛れていつのまにか男が失っていたもので、こうして取り戻すまでは気付きすらしなかったのであるが、いざそれを手にしてみると何よりも大事なもののようにさえ思われた。――今や恐怖が彼の全身を駆け巡り、その裏返しとして、生を希求する心が彼の気を確かに保っているのである。
 男は恐怖におびえながら、ただ己の心臓に這う指が消えることを願っていた。願いながら、今しがた泉の神と取り交わした契約の愚かさを後悔した。目が見えず、何も聞こえない日々を生きることが途方もなく恐ろしかったからである。ややあって、ついに彼は、己を苦しめていた指が、声の主がどこかへ去り行くのを感じとった。
 ところが男の身体はいつまでも強張ったままぴくりとも動こうとせず、視界にはどこまでも暗闇が広がり、耳に聞こえるのは自由となった心臓が波打つ音のみであった。泉の神は、果たして彼が望んだ通りに契約を履行したのであった。男は視界を、音を、身体の自由を失い、死への恐れを――生涯をともにするものとしての恐怖を、すなわち生への執着を、取り戻したのであった。