《血染めの月/Blood Moon(A25)》 3

 

 既に良い時間であったため、その日は彼の屋敷に一泊することになった。先ほどの召使いが嫌に静かな足取りで案内してくれた部屋は、以前にも何度か寝泊りしたことのある二階の角部屋であった。これは彼の気遣いだったのだろうか、自室とまではいかないものの、妙に疲れを感じている気を休めるのにちょうど良い部屋であった。早速荷物を部屋の隅にまとめ、用意されてあった寝間着に着替えて眠りにつく準備をした。というのも、これらの間もずっと私の心は悪趣味なコインに囚われたままであり、それから逃れるための最も良い方法は、眠りを通じてうつつの世界から意識を手放すことに他ならなかったからである。
 ところが、(むしろやはりというべきか)張り詰めた神経に穏やかな眠りの波が打ち寄せることは決してなかった。どれほど長い時間であっただろうか。私は頑なにまぶたを閉じ、何も考えまいと、誰に対してというわけでもなく平静を装ったが、その努力のかいなく、目覚め切った私の脳は暗闇の中にあの蠱惑的な色彩のコインを――そしてそこに刻まれていた冒涜的な怪物を、ありありと浮かび上がらせてしまうのであった。私の想像の中では、怪物はあたかも赤い檻から解き放たれた獣のように、その気色の悪い手足を自由にくねらせ、通りという通りを群れで駆け回っていた――まるでそれがあるべき姿であるかのように!
 妥当な推論として、私が憑りつかれたかのようにこういった妄想をしてしまうのは、無意識のうちにこの惨状を望んでいるからではないかと思い至ったとき、いよいよ私の神経過敏は頂点を迎えたのであった。

 

 ベッドに一番近い窓の外から、ぜり、ぜり、ぜりと、何かが蠢くような、あるいは何かが引きずられるような音が聞こえてきた。もしかしたらそれはもっと早くから鳴り響いていたものかもしれないが、長い時間悪魔的な思考に囚われていた私がそれに気が付いたのはその時が初めてであった。
 何度後悔したかもわからない。このとき、私は起き上がりカーテンを開けて外を見るべきではなかった。しかし、かような妄想によってすり減り切った私の精神は、それを紛らわせるものなら何でもいいと、半ば本能的に、正気の世界に私を留める最後の砦であった薄っぺらい布切れを払いのけてしまったのだ。実際、どれほど気丈な勇士であっても、この誘惑には抗うことができなかったであろう。
 屋敷の中庭は夜暗に染まり切っていた。しばらく辺りを見渡してみたところ、外にはじゃれ合いながら飛ぶ二羽の赤黒いカラスしか見当たらなかったものだから、肩透かしにあったような、まったくもって馬鹿らしいという思いがふつふつと湧いてきた。ようするに、私の神経過敏が彼らの羽音を何かが這いずり回る音と勘違いさせたのであろう。確かに二階の窓から見下ろした景色には、恐るべきものは何も見当たらないのであった。
 安堵のため息をつき、人間の想像力とはかくもたくましいものであると気を静めたところで、そういえば何故深夜の闇の中に飛ぶカラスを認めることができたのだろうという疑問が生じてきた。中庭に人工の照明はなく、つまり、彼らはもっと大きな、遥か深淵のかなたから届く光によって照らされていた。ごく自然な反射的な動作として私は空を見上げた。その瞬間、私の中で何かがずるりと腐り落ち、その隙間に代わりの何かが音もなく忍び込むのを確かに感じとった。

 

 あのおぞましいコインを思わせる、赤く、丸い月が私を見つめていた。コインはきっとこの月を象ったものに違いなかった。しかし、コインはこの赤色をうまく表現しきることができていなかった。それは赤より赤く、震えるほど暗く、満たされるほど明るく、ただ見るものをして呆然とせしむ未知の色彩であった。空には一つの雲も浮かんでいなかった。なぜなら、雲はその月を恐れていたからである。血染めの月は、まるでそれが然るべき場所に納まっているかのように、堂々と屋敷を見下ろし、あたりを血の色に照らしていた。このとき私は、ただその血を浴び続けるほかにどうすることもできなかった。
 どこかから再び這いずるような音が聞こえてきた。その音を聞きながらも、私は月に引き付けられた身体をどうすることもできなかった。耳をすましてみると、どうやらそれは月の方から聞こえてきているらしかった。ぜり、ぜり、ぜりと、這いずるものは次第に数を増しているようだった。そのうち、それは何かが囁くような声へと塗り替えられていった。その言葉は音の響きにしても音節の区切りにしても寒気立つような冷淡さをもち、人類祖語なるものがあるとして、およそそこから正当に分派したとは思えぬものであった。にもかかわらず、思い切って白状すると、その音は次第に心地良いものへと変わっていった。ここにきて私は変わり果てた自分の裏側を認めざるをえなかった。それを認めるとすぐに、目を覆いたくなるような名状しがたい混種が一匹、私のもとへ降り立った。

 

 この忌々しい夜に関して、以降のことは覚えていない。というのも、次に気が付いた時はもう翌日の朝で、私は遠く離れていたはずの自室のベッドの上にいたからだ。服はウォレスから借りた寝間着のままだったが、その腹の部分は誰かの血で赤く、まるで瓶詰めの赤い月明かりを服の上にこぼしたかのようであった。その夜、正気を失ったあとの私が何をしていたのかは考えないようにしている。実際、それは私がしたことではないからだ。
 血まみれの服を家の裏の森に捨てたあと、警察が家にやってきた。その朝ウォレスが無残な遺体として見つかり、彼の屋敷の最後の訪問者が私であったために、事情聴取に来たのだ。ウォレスの死を聞かされた時の悲しみは、あの月の色ほどに記しがたいものであった。私がおいおいと泣きわめくものだから、警察は聴取もそこそこに話を切り上げるほか仕方がなかった。そもそもの話として、私は何も知らないのだから、彼らに話すことは何もなかった。

 

 全ての始まりとなった赤い月の夜はこのようであった。それからも私は度々正気を失い、そのたびに血染めの服をまとって朝を迎えている。月の囁きが聞こえる頻度も増している。これは、再びかの月が街を照らす予兆である。月を這いずる怪物の軍勢は数えることも能わないほどとなった。軍勢の侵攻はもはや眼前に迫っている。
 人が朝目覚めて夜眠る生活を送るのは、科学者が言うような進化の結果ではなく、本能的に月を恐れているからである。来たる夜に、血染めの月を見上げてはならない。それは、およそ人が感付くべきでなかった悪夢の玄関口に他ならない。その夜、私は抗いがたい狂乱とともに――そして月の軍勢とともに――通りを駆け回っていることだろう。全てが手遅れであり、今はただ、然るべきものによってこの手記が読まれることを願うばかりである。