トロンプルイユのカーテン

 

 くぐり抜けた何枚目かの扉は、これまでにもまして奇妙な場所と繋がっていました。全くこの世界は不可思議で満ちており、「もう二度と驚かされはしない」と、アリスは豪奢な扉に手をかけるたび心の中で誓うのですが、行く先々で「最も驚きに満ちたもの」と出会うのですから、その覚悟は何らの意味も成しませんでした。
 すらりと伸びたまま枯れた木々が、真夜中の静けさをまとい立ち並んでいました。今度の扉の先は、奥を見通すこともできない暗い夜の森でした。しかし奇妙なのは、空を見上げると、禿げて葉のない枝のあいだから昼間の青空が見えることです。木々は陽の光をさえぎって闇を成すほどには密集していません。これではまるで、森の中と外で違う時間が流れているかのようでした。
 アリスは、ところが、奇妙な光と闇のコントラストをいたく気に入って、その境界線から森中を見渡してみたいという衝動を覚えました。昼と夜の境い目はきっと素敵に違いありません。ちょうど登りやすそうな木を手近に見つけ、足をかけようとして――その時、また一つ彼女は森の不思議に気がつきました。
 踏み出した足が妙に重く、スカートの折り目からはゴポゴポと空気の泡が浮かんでくるのです。アリスは重大なことに気付き、とっさに喉元に手を当てました――が、どうやら息はできるようです。(実際、もし息もつけないようなら、立ち止まって空を眺めている余裕はなかったでしょう)勢いをつけてその場で飛び上がってみると、身体はふわりと浮き上がり、ゆっくりとまた沈んでいきました。アリスはこの感覚をよく知っていました。

 

「ケクリプッキはどこ?」

 

 静まりかえった枯れ木の森にアリスの声が響きました。ケクリプッキのことは、前の扉の中で六本指の正七角形から教わりました。それはこの世界が生まれる前からあるもの(もしくは「いるもの」――ですが、アリスはその実態にはあまり興味を抱いていないようです)で、吐く息により、あらゆるものを「もとに戻す」ことができるのだそうです。アリスがこうして世界をさまようのは、彼女がもといた世界に戻るために他なりませんから、ケクリプッキの息はおあつらえ向きのものでした。

 

「ケクリプッキ?」

 

 せめて松明のように灯りになるものがあればと思いながら、アリスは暗い木々の間を泳ぎました。ケクリプッキはなかなか見つかりません。正七角形が言うには、ケクリプッキは非常に大きなものらしいので、見つけるのに苦労はしないはずでした。

 

「わしを呼ぶものがおるのか」

 

 手と足に疲れを感じてきた頃、ようやくです。何かがアリスの呼びかけに答えました。

 

「ケクリプッキ?どこにいるの?」

 

「わしを呼ぶものがおるのか?」

 

「ここにいるじゃない!姿を見せて」

 

 アリスは声がしたあたりに降り立ち、ひるがえった洋服を整えました。すると、目の前にふよふよと漂い寄ってくるものがありました。ケクリプッキは新鮮そうな色をした生卵でした。アリスは、ケクリプッキの姿をもっと威厳のあるもの――例えばドラゴンですとか――だと想像していたので、これには大変驚きました。

 

「はじめまして、私はアリス。お会いできて光栄ですわ。生卵さん!」

 

「わしを生卵と呼ぶでない!けしからん」

 

「ごめんなさい。あなたのことは聞いたわ――吐く息で、どんな物ももとに戻すことができるって。でも、その姿では息ができるように思えないけど......」

 

 アリスは心配そうな眼差しで石っころほどの大きさのそれを見つめました。彼女にはケクリプッキの力が必要なのです。

 

「全く古い話をするではないか。ふむ!一体どこから嗅ぎつけたのだろうな......。だが、確かにわしの息吹は不思議な力を持っていた......。壊れた時計を直すこともできたし、傷ついたものを癒すこともできた」

 

 生卵はぽよんぽよんと跳ねながら、ゆっくりと話を続けました。

 

「だが、この息吹は風車を星空に変えたこともあった。食器をカラスの『つがい』に変えたこともあった。ふむ!全く不思議なものだろう。わしの息吹には 『もとに戻す力がある』と、者どもは噂したが、わしはそうではないと考えていた。不思議なものだろう?」

 

「たしかに不思議ね。でも、話の筋は読めてしまったわ。あなたは自分の息を自分に吹きかけて、それで生卵になったのよ!」

 

「ふむ!お前を少しみくびっていたようだ!たしかにそうだ――わしはこの息の法則性が知りたくて、あらゆるものに息を吹きかけてまわった......しかし、解明は進まず......ついには息を吹きかけるものがなくなってしまった。そこで、いよいよわしは自分に息を吹きかけたのだ」

 

 ケクリプッキは続けます。

 

「するとわしは生卵になった。ふむ!不思議なものだろう......。そしてこの息は『使う』ことができなくなった。だが、わしが生卵になったことは、長年検証していた説の証明となった」

 

「セツの証明?」

 

「わしは自分自身がどのようにして生まれ、何を為してきたのか全て知っている。そして、自分に息を吹きかけるまで、わしが生卵であったことは一度もない!つまり、この息は『もとに戻す力』を備えるものではなかった。そうであろう......風車が星空に変わったとき、わしはたいそう驚いたが......この風車がもともと星空でなかったと誰が知るだろうか?このことには、もっと早く気付いてもよかったものだが......要するに、わしも、お前も、確信できることは己の過去にしかないのだ」

 

「よくわからないわ。私は『もとに戻す力』が必要なんだけど、あなたはそれをもう持っていないということ?」

 

「ふむ!気の早いやつだな......。おや、待て。この音はなんだ?......いかん、海月じゃ!」

 

 音――は何も聞こえませんでしたが、アリスは生卵の叫びによって、赤い何かが頭上高くを泳いでいることに気が付きました。オーロラと見紛うほどの大きさを持つ化け物海月です。
 十メートルは優に超えるであろう肉厚の触手をなびかせ、二匹の大海月がゆっくりと空を進んでいきます。触手の長さと比してその笠は異様に小さく、角度によっては真っ赤なカーテンがひらひらと宙を舞っているようにも見えました。長い触手が木に引っかからないようにか、海月は明るい方の空を泳いでいました。暗い森の中にいるものは、どこからでもその姿が見えたことでしょう。
 アリスは、この海月もケクリプッキの息吹によるものか気になりましたが、ケクリプッキが「ただの生卵」になっていたため、何も尋ねることができませんでした。枯れ木の森は死んだように静かでした。自然とアリスも息を殺して大海月の優雅な飛行を見守っていました。大海月は、深紅の触手の美しいたなびきを見せつけるかのように、ゆっくり、ゆっくりと進んでいきました。

 

「もう行ったよ」

 

 ややあって、赤いカーテンは視界の端に閉じ切りました。アリスの声を合図にして、「生卵」は伸びをするかのように白身を震わせました。

 

「まったく今日はなんという日だ......。アリスや。お前が来てからというもの、この海はなんだか騒がしい」

 

「だって私は『お客様』だから。私はもとの世界に戻りたいの」

 

「ならばわしを一口で飲み込むがよい。わしはなぜ生卵に変身したのだろうか?それは誰かに食べられるためかもしれんの」

 

 アリスはケクリプッキを両手で掬い、言われた通りに一口で飲み込みました。味はしませんでしたが、つるんとした喉ごしが気持ち悪くて思いきり顔をしかめました。

 

「ケクリプッキ?」

 

 森は――ケクリプッキは海と呼んでいましたが――アリスを取り残し、再び夜の静けさを取り戻しました。静まりかえった闇の中で、アリスは何かが起こるのを待ちました。ケクリプッキが胃の中で暴れているのか、次第にお腹が痛くなってきました。ケクリプッキは艶のある黄色をしていましたが、流石に時間が経って腐っていたのかもしれません――正七角形が言う通り、ケクリプッキがこの世界と同じくらい古い存在であれば、これほど月日が経ちすぎた生卵もないでしょう。いよいよ腹痛に耐えかね、アリスは本を閉じ、婆から薬をもらおうとしてベッドから起き上がりました。

 

 開けっぱなしの窓から懐かしい匂いの風が吹き込み、赤いカーテンのドレープを揺らしていました。大海月はずっとアリスを見ていました。アリスもそのことを知っていました。